僕たちの中を流れゆく水 試し読み

水彩絵の具のように淡く

咲倉結裡

 体育館ではバスケ部が練習に励み汗を流している。プールでは水泳部が激しく水しぶきを上げている。ちょうど、テニス部のマネージャーが、部員のために、とスポーツドリンクの入った水筒をまとめて沢山運んでいるようだ。美術室の窓から見えるグラウンドにも野球部や陸上部、その他多くの学生がそれぞれの部で必死に練習している。
 程よくクーラーのきいた美術室で、僕も部活動に取り組んでいる。いつもなら、絵具が乾くのでクーラーをつけないこともあるが、今日はまだ下書きの段階。悠々と快適な部屋で絵を描いている。黙々と続けていたが、ふと時計を見ると下校時刻の数分前を示していた。今日は片づける時間もそんなにいらないから、いいかな。
 あ、そういえば魚田を起こさなくては。
 魚田かなえ――彼女は制服のリボンの色から判断するに僕より一つ下の一年生のようだ。夏休み前ごろから美術部に来ている。僕が絵を描くのを興味深そうに見つめてくるが、入部希望ではないらしい。うちの部はほとんど僕しか活動していない。他にも部員は何人かいるけど、兼部しているらしくたまにしか来ない。だから、僕が魚田を咎めなければ、別に部外者であってもいていいだろう。
 今日は珍しく、僕が鉛筆で下書きをしているとスヤスヤと寝息を立て始めた。
 よほど疲れていたのだろう。今日はもう帰るので、魚田を起こそう。そう思って僕は魚田の肩を軽く叩いた。
――と、そのときだった。
 魚田に触れた手から身体に高圧電流でも流れたかのような衝撃が走った。
「……っ!」
 そして、これまで感じたことのない感覚が自分に降りかかった。寝てもいないのに長い夢を見ていたかのような感覚。なんだ、これ? 
 どんなに足掻いても、力ずくで水の中に押さえつけられて溺れていく。
 そんな誰かの記憶が頭をよぎる。
「どうしたんですか? 水川先輩」
 我に返ると、魚田は目を覚ましていて、その目は僕を見ていた。
「いや、大丈夫だよ」
「そうですか……? あ、すいません。私、寝ちゃってて。このブレザー、先輩のですよね? ありがとうございます」
 そういって内ポケットのネーム欄に「水川そうすけ」と書かれたブレザーを僕に渡した。
「朝、家を出るときには寒かったんだけどだんだん暑くなってきてね。ちょうどいいコートハンガーがあったから、かけておいただけだよ」
 そういうと、魚田は「私を洋服掛け扱いしないでくださいよー」と笑った。
「さぁ、もう時間だから帰ろうか」
「はい。今日は先輩と一緒に帰ってもいいですか?」
「えっ? あ、あぁ。いいけど」
 僕がそういうと、魚田は嬉しそうに通学鞄を片づけ始めた。

 人気のない校内を歩きながら、ふと僕は訊いた。
「魚田は絵、描かないの?」
 いつも、僕が描くのを見ているだけだからだ。
「うーん。線画はしてもいいかなって思うんですけど、絵具で色を塗るのが苦手で」
「そっかぁ。じゃあ、今度から線画だけでもしてみる?」
「いや、でも、そこまで描いちゃうと、色を付けたくなっちゃうんですよ」
「じゃあ、着色までしちゃおうか」
 そう、冗談っぽくいう。
「私、水を使って描くの苦手なんですよ」
 水を使う?
「それって、どういう意味?」
「どう表現したらいいのか難しいんですけど、絵具に水をほんの少し加えるだけで、全然違う色になっちゃうような気がして」
 なるほど。分からなくもないような。
「じゃあさ、色鉛筆とか、ペンとかなら大丈夫なの?」
「そうですね。そんな気がします」
 そんな話をしながら、渡り廊下の下をくぐる。
「なんだか不思議だね」
「そうですか?」
 二人で笑いながら、校門を出た。

終わり無き
水彩絵の具のように淡く
かくしゴト
水中放追
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