僕たちの中を流れゆく水 試し読み

水中放追

山下たずね

 水がごうごうと渦巻く音が一段と大きくなってゆく。この街にただひとつしかないエレベータのなかで、僕はその耳をつんざく音を聞いていた。
 こんなに天海に近づいたことはなかった。当然だ、一基しかないエレベータは民間人が入ることを禁じている。もっとも、好き好んで乗りたがるような人間はそうそういないだろう。大事に大事に庇護された人々。ここは子宮の中のようだね、と彼女がつぶやいたのは、あれは何年前のことだったろうか。
「子供は大人に守られていることを知らない。他人に守られていることをはっきりと自覚することが成熟の証なんじゃないかと思うようになったよ」
 僕が賢しげにそう言うと、彼女は困ったように笑った。
「私にはわからないな、そんな哲学的なことは」
 哲学的、という言葉に僕は一瞬かちんときた。けれど、他でもない彼女の言葉なのだ、と思った途端、怒りは一瞬で霧散した。
 この世界で唯一、哲学を皮肉に語らない人。
 諦めてしまったあの古書屋にも、挑みつづけるあの小説家にも、踏みにじられたあの音楽家にもできなかったこと。哲学にひたむきに向きあうこと。文学を、音楽を純粋に愛すること。
 この世界で、この街で。彼女だけが生きることを知っていた。
 その彼女は、もういない。この世のどこにも。大腿骨の破片ひとつ、血小板のかけらひとつ、筋繊維の断片ひとつ残すことなく、あのナノマシンの渦に飲まれて消えた。
 彼女の最期を思うだけで、僕はこの心臓を止めてしまいたくなる。けれど、隔壁のむこうに僕はゆけない。だって僕はもう、この街を追い出されるのだから。
 水中放追。
 それが僕に課せられた、たった一言の判決だった。

 それがどのような経緯で決まったのかは知らない。ともかく、彼女は水上宮の貴族たちによってナノマシンの海へ生きながらにして放りこまれ、そして死にゆきながら全身を分解された。
 悪趣味な誰かさんは彼女が分子レベルでばらばらになってゆく様子を記録していて、その映像を僕の視界に直に映し出してくれた。手の届くほど近くで、白魚のような皮膚がただれるように水に溶け、筋繊維がぷつぷつとちぎれながら水に紛れ、血管からこぼれ出た血が水と混ざり、五臓六腑その他の内臓に水がしみこみ、真っ白い骨がスポンジよろしく水に食われる、そんな様を見せつけらた。僕はわめいて叫んでえずいて吼えてその光景を打ち消そうとしながら、同時にけして目を逸らさずに彼女が死んでゆくところを見ていた。
 彼女はどんな苦痛の渦の中でも、最期の最後まで美しい彼女のままだった。
 そしてこの街にただひとり残された僕は、彼女と同じ命運を辿ることさえ許されず、こうして水上に連れていかれている。あたかも人間の歴史を遡行するかのように、エレベータは上へ上へと昇ってゆく。物好きな誰かが見ているようなことがあったとしたら、水面から降りる大樹のような水の柱の中にこのエレベータの軌跡を認めることだろう。
 ふと、体に上向きの力がかかる。エレベータが速度を落とし始めたのだ、ということにはしばらく思いあたらなかった。奇妙な浮遊感。酔ってしまいそうだ。水音が突如として収束を始める。何か分厚いものに遮られたように、音は完全に聞こえなくなった。
 やがて、エレベータは完全に停止する。空気の抜けるような音がして、扉が開いた。僕を水上に放り出すためだけに同乗していた貴族院の下級貴族が僕の背中を押す。エレベータからまろび出た瞬間、扉が閉まった。僕は細長い廊下にひとり取り残される。
 真っ白い床、壁、天井。しかし、明かりは廊下のむこうにひとつぽつりと点いているだけだった。僕は仕方なくその廊下を進む。かつん、かつん、と無音の中に僕の足音ばかりが響く。あまりにも周囲が静けさで満ちているから、足音の反響が止むたび、きぃん……と耳鳴りが僕を襲った。それでも僕は歩き続ける。戻ることはできない。ここにいたって飢えて死ぬだけだ。ならば前に進むしかない。それに僕には、ここで探さなくてはならないものがある。
 水上に至る最後の扉の前で、ひとつ深呼吸をした。この先は人間の過去。楽園を追放された人間は、ついに地上での居場所さえ失い、こうして水底に生きることになった。あれから正確に何年が経ったのか僕は知らない。知らないことさえ知らずに生きてきた。そう、彼女に会うまでは……。
 とはいえ、そこに至るまでの正確な経緯は彼女でさえ知らなかった――その手の文献はすべて、貴族院の手によって握りつぶされていたからだ。僕が詳しいことを教えてもらったのは、あの諦念の古書屋からだった。彼は何度も危ない橋を渡りながら禁書の類を集めつづけ、そして二年前の春に貴族院の手によって処刑された。残された蔵書はすべて高度廃棄物処理場で、つまりは彼女の死に場所で、これまた完全に処理された。あらゆる有機物を二酸化炭素と水とその他の元素にまで分解してしまうナノマシンの群れは、こうしてまたひとつの知性を水中の街から消し去った。
 鍵穴もドアノブもない扉にそっと触れる。額をこつんと扉にあてた。
 彼女に会いたかった。
 叶うことはないと知っていても、彼女に会いたかった。もう一度その手に触れたかった。もう一度その声が聞きたかった。
 僕の主人。僕の母。
 それでも僕の眼は涙を流さない。彼女が死んでも、彼女が生き返ったとしても、決して。
 ふと、何か機械の動く音が聞こえたような気がして顔を上げた。扉から手を離す。その途端、扉がすっと開いた。

終わり無き
水彩絵の具のように淡く
かくしゴト
水中放追
既刊紹介

山下たずね

inserted by FC2 system