「志」第一巻 試し読み

仮面夫婦な高校生

結崎碧里

「稲沢先輩とマネージャーの江崎先輩って本当に仲いいっすよね」
 部活の練習が終わり、更衣室で練習着から制服に着替えている最中、後輩の一人が言った。
 遠くでヒグラシが鳴いている。
 汗で蒸れた更衣室内に、小さく切り取られた窓から夏の夕陽が差し込み、後輩の爽やかに流す汗を光らせていた。
 後輩のこいつに、悪意がないことは分かっている。だが、俺は彼のその「悪意のなさ」に対して憎しみのような感情を抱いていた。
「あ、あぁ。そうだな」
 感情を抑え、後輩の言ったことを肯定する。
「そういやー、今月でもう付き合って一周年なんじゃねぇの?」
 そうからかいながら、同輩は俺の横腹を突っつく。
「ちょ、お前、からかうなって」
 俺は努めて笑いながら、それを払いのける。

 更衣室を出ると、部の筆頭マネージャーである江崎ミホが俺に近寄ってきた。
「部長。これ、今日の練習記録ね。後で監督のところに持って行くから、目を通して」
「了解」
 そう俺は短く答えた。
「…………」
 じっとミホは俺の目を見る。
 どうせ、今の短く切った返事が気に食わなかったのだろう。もっと愛想よく返事しろ。そうしないと、他の部員たちにバレるだろ。と、でも言いたげだ。
 俺は少し笑みを浮かべてから、ノートに目を落とした。
「……今日の滝本は頑張ったみたいだな」
 ほとんど内容が頭に入らないが、「俺はちゃんと読んでますよ」と示すようにコメントする。更衣室内で芸人のモノマネをしている同輩と後輩の声だけが、嫌に鮮明に耳に入った。
 あいつら早く来いよ。と内心、舌打ちしながら待っていると、やっと思いが通じたのかぞろぞろと部員たちは更衣室から出てきた。横目で彼らを一瞥すると、冷やかすような目で俺とミホを見ているようだ。そのことにより一層イライラが増す。
「ねぇ、稲沢君。今日一緒に帰らない?」
 ミホはまるで最愛の恋人に向けて言うかのように、笑顔でそう言った。
「あぁ、そうだな」
「じゃあ、私は監督のところに練習記録を渡しに行ってくるから、ちょっと待っててね」
「校門の辺りでいいか?」
「うん。ごめんね」
 そう言うと、ミホは黒髪のポニーテールを揺らして監督のところに駆けていった。
——さも、恋人のもとに早く戻りたいかのように。
 俺は鞄を肩にかけなおして、校門に向かおうとする。
「『ねぇ、稲沢クン。今日一緒に帰らない?』だってよ。すっげぇ、かわいいじゃねぇか。なあ」
「くっそぉ! 稲沢のヤツ。うちの部のアイドルを独り占めしやがって」
 各々に勝手なことを言い合っている。
――彼らは分かっていない。今、ミホの目は笑ってなかったことを。

 それは半年ほど前だった。ミホと付き合い始めてもう半年以上になるある春の日の夜。俺はミホが男と歩いているのを見てしまったのだ。
 そのときは「他人の空似だろう」と忘れようとした。だが、どうしても気になってミホに訊いてみた。
「違うよ。私が浮気するわけないよ」
 その一言が聞きたかった。確認したかった。しかし、どうも様子がおかしい。
「おい! どういうことなんだよ!?」
 ミホは認めた。俺と違う男と付き合っていることを。だが、ミホは取り乱さなかった。
「あなたは部長。私はマネージャーのリーダー。ここで私とあなたが不仲になることは部にとってマイナスに働くことは想像がつくかしら?」
 ミホの言葉は冷淡だった。だが、正鵠を射ている。俺は何も言えずに、しばらく俯いていた。
「……分かった。で、俺にどうしろと?」
 心を落ち着かせ、そう訊いた。
「これまで通りを演じるのよ」
「つまり、仮面夫婦か」
 そうね。と彼女はどこか他人事のように笑った。俺はそれに抗う気力もなかった。

 校門の前で忘れてしまいたいあの日の回想をしながらミホを待っていると、ひとりの女子生徒に声をかけられた。
「あのー、稲沢タクヤさんですよね?」
 小柄で、栗色がかったボブヘアの少女。その顔に見覚えはないが、制服が同じところを見ると彼女も同じ高校の生徒なのだろう。
「そうですけど……あなたは?」
「見つかってよかったです。私は一年の源アカリです。塾の廊下にこれが落ちていたのですが」
 そう言って渡されたのは、俺の通う塾のIDカードだった。
「えっ、マジっすか。ありがとうございます。――源さんでしたっけ?」
「はい。源アカリです。私、後輩なんで呼び捨てでいいですよ?」
 クリクリとした丸い瞳で、眼鏡越しに俺を見てくる。
「そうか。じゃあ、源。拾ってくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。ところで、稲沢先輩は誰かと待ち合わせ中なんですか?」
「ま、まぁ、そうだな」
 ちらりと、ミホの顔が浮かんだ。あいつの名前を出すのは癪だな。
「ひょっとして、彼女さんとかですか?」
 源は少し悪戯っぽく、そう訊いた。
「その顔は、ひょっとして図星ですか?」
「俺、そんな顔してたか?」
「どうでしょうか」
 源は冗談っぽく笑いながら、そう言った。
「では、私は塾に行かなきゃいけないので、ここで失礼します」
 そう言って、源は去ろうとした。
「あっ、ちょっと待って」
 なぜか分からない。だが、俺は源を呼び止めた。
「何ですか?」
「俺も今日、行く予定だったから。一緒に行かないか?」
 源は当惑した様子で俺に訊いた。
「待ち合わせはどうされるんですか?」
「さっき、メールで先に帰るって来たから」
「……そうですか」
 俺は嘘を吐いた。そんなメールなんか来ていない。
「一緒に行きましょうか」
 ミホのことはもう、どうでもいい。今の俺は源アカリに興味があった。

 その夜、ミホにはメールで謝っておいた。
――悪い。今日は用事を思い出したから、先に帰らせてもらった。
 二時間後、返信があった。
――あっそ。そうだったなら最低限、私に伝えるべきでしょ? 非常識よ。
――ホウ・レン・ソウって言葉知ってる? あんた、馬鹿じゃないの?
――もし、私が一人置いてけぼりにされてる姿を部員に見られたらどうするの?
――それで、私たちの関係性に気づかれたらどうするつもりなの? 計画性なさ過ぎ。
――そんなのでよく部長やってられるよね。
 俺はミホには返信せずに、アカリにメールをして寝た。
――今日はありがとう。また明日、塾の休憩室で会おう。
 数分と経たずに、アカリから返信があった。
――はい。ぜひ、また先輩とお話したいです。
 脳裏に浮かぶアカリの姿、匂い、声。気が付けば、俺はアカリに惹かれていた。

仮面夫婦な高校生
赤い魚の住み家
希生と司と京都
九十九神の嫁入り
花火
その代償

結崎碧里

inserted by FC2 system