「志」第一巻 試し読み

赤い魚の住み家

綾瀬琉香

 目を細め、カメラを構える。
「なちー、いいものは、撮れたかー?」
「どうでしょー」
 ケラケラと笑いながら漁へ行く隣人を見送り、青い海をじっと見た。
 思い出すのは、高校時代だ。

 高校時代、西園寺七智は生物部に入っていた。部員数はたったの五人。
アクアリウムの好きな部長に、何となく入った副部長。山が好きな2年生と海好きの同級生。特に用がなくとも部室には誰かがいて、宿題をしていたり、図鑑を見ていたり、それぞれが好きなことを気ままにやっていた。
 顧問は実は定年を過ぎていますというおじいちゃん先生だった。七智達の卒業と共に教員生活を引退した。うっすらと気付いていたが、生物部のために残っていたらしい。
 生物部の部室はテスト期間中でも閉めなかった。もともと、来たいものはきて、来ないものは来なくて良いという部活だったため、特別に閉める必要がないんだ、と部長は言っていた。
 こんなに自由でのらりくらりとやっていけそうな部活なのだが一つだけ、そうはいかない学校行事があった。
 文化祭だ。
 部であるならば、何かしなくてはいけないらしく、三年間毎年悩まされた。
 意外と前年度の使い回しができない。やることは展示で、なにか作るか、飼うか、が基本だったが、飼うには費用が必要で部に未来がないのでかわいそうなことになる可能性が高く、作るには人数が少なかった。小さい教室でも、急いで五人で埋められるのは極一部。
 あとは、標本などを各自で持ってきた。
 楽しかったなぁと思い出していると腹が鳴った。
 日は完全に昇り、七智を照らす。真夏は過ぎたといえども、まだまだ暑い。
 カメラを構え、昼の海を収める。
 少しの時間で顔が変わるのに、間を逃がしたのはおしい。
 残念に思いながら、カメラを置き、リュックサックを開ける。
 水筒と弁当を出して、一息着いた。
 独り暮らし三年目だが、まだまともな料理が出来ず、この島では冷凍食品もほとんど売っていないため、弁当と言ってもお握りだけだ。さみしい。
「お兄ちゃん、今日もさみしいね」
「うん」
 ひょっこりと顔を出した女の子に七智は頷く。名前はわからないが、この島の子だ。
「さえちゃんのおべんとうとこうかんしよ!」
 堤防の上に登ってきた女の子は、まだ開いてない七智のお弁当箱を取り、自分のものを置いた。
「お母さんに、怒られない?」
「いいの。今日は、おにぎりが食べたいの。」
「さえちゃんのお母さんみたいに美味しくないよ?」
「お兄ちゃん、ぶきようだもんね」
 大人びてるなと思いながら、七智も女の子の弁当を開けて食べ始める。
 お腹はすいているのだ。
「でも、おいしいよ」
 ニコニコと笑う女の子はどうしてお弁当を持ってきていたのだろう。
「さえ、おにぎりじょうずに出来ないけど、おかあさんもおとうさんもおいしいって言ってくれる。だれかのために作ったんだったら、おいしいんだって」
 言いたいことは言えたと満足げな女の子に水を差すような言葉は吐かず、口を閉じる。
こうやって言わないようにできるようになったのは最近だ。
 言いたいことは言い、面倒なことは言わない。今思えば、とてもめんどくさい男だっただろう。
「さえのおともだちがね」
「ん?」
「今日遊ぶやくそくしてたのに、ダメになったの」
 口端だけが上がり、奇妙な笑みが作られる。
「なんで?」
「知らなーい。だから今日は一人で遊ぶの」
 器用な子だなと女の子を見て、カメラを手に取り一瞬で写す。
 女の子の大人びた姿は不思議だ。
「あっ、カメラだ!」
「そう、使ったことある?」
「ない。大きいね。これ」
「一眼レフっていうやつ」
 渡すと小さな手で受け取り新しいおもちゃに目を輝かせて動かす。
 夢中になって見る姿は先ほどとは遠くかわいらしい。
「こっちで島の中撮ってきて」
 デジカメを渡す。小さいから持ちやすいだろう。
 いいの? と目で聞く女の子にうなずく。
「お兄ちゃんが知らないところとか、みんなが何をしているかとか、何でもいいし撮りたいところを撮ってきて。お願い」
「うん!」
 嬉しそうに駆け出す背中を見送って、また海に目を向けた。
 眩しい日差しを遮るためにつばの大きな麦わら帽子をかぶる。
 子どもには「お願い」というと良いと教えてくれたのは同じ生物部だった長谷川早苗だった。海が好きな同級生だ。
 長谷川は七智の飾りのない言葉の一番の被害者だった。
 直接的に言われたり、他人に言ったもののフォローをしてたり、高校では完全に七智の保護者扱いだった。
 七智に関わりたいなら長谷川と仲良くなること。なんてことまで言われていたらしい。
 一年生の時は保護者と子供だったが、二年になって飼い主と犬。もうその頃には七智に用があれば長谷川に聞くというのが暗黙の了解となっていた。二年の後半には生徒だけではなく教師までもその暗黙の了解にのっかっていた。
 確かに、起きている限りは必ず長谷川の電話やメールには返したし、長谷川は七智がいる場所を必ずあてた。一日会ってない日もよくあったにもかかわらず必ずあてた。
 三年生になるともう学校中にその暗黙の了解は広がりを見せ、生物部の夫婦という呼び方になっていた。子供から犬になって、夫になったのだからかなり飛んで昇格したと思っていた。生物部に二人しかいなくなっていたのだから、そう呼ばれてもおかしくないと言われればおかしくはなかった。
 コンビにされたこともあり仲良さそうに呼ばれていたが、本人たちは特に仲が良いとは思っていなかった。三年間毎年クラス替えはあったが、一度も同じクラスになったことはなかった。ただ、同じ部活というだけ。
 他の大きな大会に出るような運動部の選手とマネージャーとかなら噂の通りでもありえないことはないだろうが、廃部決定の生物部だ。恋愛感情が芽生えるようなこともなく、噂もただの噂でしかなかった。
 場所がわかるだけで、特別仲良くもなく廊下ですれ違えば会釈する程度。部員としても、熱帯魚のエサやりは長谷川がすべて行っていたし、部活として必要な話があるときにしかまともに話していなかった。部員同士にしても、あまりにも淡白な付き合いだった。
 本当に不思議で迷惑な話だった。
 今、言われたならばうれしいけど。
「七智くん、ほれ」
 七智の横に、七智の隣に住むおじいさんがデジカメを置いた。
「これ」
「さえに貸してくれていたんだろ」
 疲れて座っているところを回収されて自宅に帰ったらしい。
 暑さに負けず、楽しさに走り回っていたそうだ。
「しゃれたもん持ってるなぁ」
「普通ですよ」
 デジカメに入った新しい風景を見て、クスリと笑みがこぼれる。子供の視線で撮られた写真は七智が撮ってきたものとは全く異なる。
「子供の視線って、すごいですね」
「とんでもねぇなぁ」
「俺、ここに来てそのことに初めて気づいたんです」
 隣人は何度かうなずいた。彼には孫までいるので思うところはたくさんあるのだろう。
「七智くんは今日も、一日海を見てたのか?」
「はい。今日も見ていました」
 ここ数日、一日ごとに場所を変えて海を一日中眺めている。
「なんでか聞いてもいいか?」
 目を泳がし、首を傾げて七智は隣人を見た。
 堤防の下で、波がぶつかり大きな音を立てた。
「もしかして、俺心配されてました?」
「悲しい背中してたからな。島中で噂だぞ」
 にやりと笑った口と優しい瞳が向けられた。
「ちょっと過去を思い出していただけですよ」
「年よりくさいことをしてるなー」
「思い返したいことがあるんですよ」
 ひねくれた口調で返すと隣人は楽しそうに大笑いした。若い者が悩んでいるのが青くて面白いのだろうか。
「今を生きろよ。若者」
「そこまで若くないですよ」
「俺の半分もないだろ」
 堤防から飛び降りると、隣人が思い出したと振り返った。
「孫が王子様にまた会いたいって言うんだ。また来い」
「いいですよ。そのかわり、」
「金魚のエサと夕食な」
 家に帰ったらさっそく奥さんに怒られるであろう背中を見送る。
 七智がこの島に来た時の唯一の持ち物であった金魚と七智の夕食は島の人に同列で使われている。少し不満だが、金魚のエサをもらえなくなると困るので言わない。
 夕方のオレンジに光る海を撮る。
 先ほどの隣人は二年半ほど前に七智を拾い、この島に家をくれた恩人だ。
 この島で仕事を与え、人付き合いを学ばせてくれた人でもある。
 大恩人ともいえる隣人に、戻りたい場所はないのかと一度だけ聞かれたことがある。
 この島に来て馴染んできたころの宴会の席で、だったはずだ。
 そら、どこから来たかわからないが帰りたそうなそぶりもしない相手がいたら聞いてしまうだろう。
 その問いになんて答えたかは覚えてない。
 酒に酔うと記憶をなくすタイプだから…。
 嘘だ。覚えている。思い浮かぶ場所なんて一つしかない。
 どれだけごまかそうと思っても、一つしかない。
「帰るかなぁ」
 いつの間にか傍に転がっていた猫の頭をなでた。

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花火
その代償

綾瀬琉香

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